学校を卒業後、紆余曲折を経て30歳で中学校の教師となり、
現在に至っています。
胃が弱く低血圧症で、見かけほど丈夫ではなかったものの、
病気で寝こむようなこともなく、
9人家族の中でなんとか家庭と仕事を両立させてきました。
ところが、5年前に最初の追突事故に遭って以来、
私の体は大きく軋みはじめたのです。
2月9日の夕方、子供を病院に連れて行った帰り道、
凍っていた雪の下り坂で信号待ちをしているところに、
後ろから追突されたのです。
初めてのことなので、首から上にツーンとしたものが走ったのですが、
それがムチウチの最初の印象だとは知る由もありません。
幸い子供は別条なく款われた気持ちでした。
翌日は特に変わったこともなく、肩や首が凝っているくらいでした。
黒板に字を書くのに右手が上がらず、
左手で待ち上げて書いていたのを覚えています。
しかしその夜から吐き気、めまい、頭痛が起き、
背中や腰が痛くて一睡もできませんでした。
翌朝には首が回らなくなっていました。
祈りしも3年生の担任で進路事務の真っ只中であったため、
休むに休めず、整形医院で牽引と注射を毎日してもらい、
薬を飲んで急場をしのぎました。
1ヵ月くらい治療を受けたでしょうか。
腰痛や時々の偏頭痛を除いて強い症状がとれたので、
治ったものだと思っていました。
腰痛については、上の子を出産後ひどいギックリ腰に
なって以来のものなので、安易に考えていました。
悪いことは重なるとはよく言われますが、この年も災難続きの年でした。
4月に転勤し、2年生のクラス担任となりました。
ところがこれがとんでもない悩みを抱えたクラスで、
気も抜けず無我夢中で1学期を終えました。
夏の試合もすんでひと息つこうとした矢先に、
すこぶる元気だった義母が、急に左足に痛みを訴えて歩けなくなってしまったのです。
変形関節炎だということで入院の冲し出もきいてもらえず、
夜通し足をさすっていても痛みが鎮まらず義母を背負っては車に乗せ、
方々の病院に行きました。
結局、骨のガンで8月16日に入院したのです。
それ以降、義母が亡くなるまでは、家から病院から学校を往復しながらの生活が続き、
子供のことや家のことはもとより、自分の体のことなど顧みる時間と心のゆとりもありませんでした。
当時、太っていた義母を背負うのは、私の腰には無理だったのでしょう。
30分と同じ姿勢がとれないほどでした。
それでも腰痛も割れるような偏頭痛もさはど
こわい病気だとも思はず、鎮痛剤を飲んではおさえていました。
これがムチウチと関係があるなどとぱ思いもよりませんでした。
左足の痛いのは、母譲りの神経痛くらいに考えておりました。
夜、子供に腰や背中を踏んでもらっては、書き仕事をしたものです。
指圧、マッサージ、鍼を手当り次第うけるようになったのもこのころからです。
義母の葬儀も済ませ、新学期も軌道に乗り出した
5月中頃より、例年になく頭がうっとおしく、左足に冷たい風を感じるようになっていました。
同時に、体もだるく、食欲もなく、胃痛がよく起きて、痩せるばかりでした。
初めて胃の検査を受けましたが「胃下垂以外、異常なし」
そして8月下旬、義母の初盆を済ませてホツとして気が緩んだのか、
朝、目の前が黄色くなり、
吐き気とめまいに襲われて足がただなくなってしまったのです。
診断の結果ぱ「急性肝炎」でした。
幸い食事療法と薬でよくなるということで、通院しながら治療しました。
半年余りもたった春には、検査の結果もよくなり、
薬も試験的に止めることができました。
この時は比較的体調もよく、4月からは新1年生を担任。
初めが肝心とクラス作りに燃えていました。
ただ、おしりから左足への冷たい感じは増すばかりで、
夏でも大布団が離せなくなっていました。
そのうえ夏場に入ると、肝炎が再発し、
前ほどではないものの、薬を飲みぱじめました。
このときは、すい臓もよくないからと、薬が追加されました。
何種類もの、いろとりどりの錠剤を、
下の子供がチョコレートみたいと喜んで出してくれたものです。
仕事はできるだけ休まないようにと頑張るものの、
以前のように、薬や注射をしても楽になる
度合いが落ちてきているのが感じられました。