Sさんは、カルテの既往症の欄には、
「先天性股関節脱臼、静脈瘤(左足内側)」
と自身で書かれている。
十三年前に自然良能会で治療を受けたのは、
股関節脱臼が出たのであろう。
先にも述べてように、先天性股関節脱臼を難症というのは、
潜在期間が非常に長いことだ。
三十年どころか四十年、五十年経って発症するというものだから、
体内で徹底的に悪くしてから表出しただけに、
症状はひと筋縄やふだ筋縄で括れるものではない。
そのひどさには、整形外科や他の治療師ならば二の足を踏むだろう。
それゆえに「難症」といわれるのである。
しかし自然良能会の治療家は、
どんなにひどい患者さんでも手取り足取り治療する。
ただし、この症状だけは別格だ。
「何十年もかけて悪くしたものだから、
一朝一タで治るなんて無理なはなしです」
という言葉は、同会の常套語だが、
とくに先天性股関節脱臼には当て嵌まる。
骨盤調整は歩けず、悲鳴を上げている
ひどい状態の患者さんでも、初回や二、三回の調整治療で
なんらかの改善、成果を体感させる。
だが股関節脱臼は別物だ。
懸命に施術しても、ほとんど反応がない。
長い年月潜在していただけに、
まさに押しても突いてもピクリともしないのだ。
ひどいのになると、何日や何週間なんてものではない。
だから、同会の治療に携わる人が、
「ひどい患者さんだと一生ものですね」
と言い切るのも、あながち大仰な表現ではないのだ。
それだけに、なんの反応もないので諦めて、
リタイヤする人も少なくない。
それを頑張れ、頑張れと励まして治療をつづけさせる。
これも同会の治療家の努めである。
ただ十三年前のSさんの症状は、
主噴火ではなく、予備のものであったのか、
それとも年期が入っているわりには
思ったより悪質化していなかったのであろう。
しばらく治療をつづけると良くなって、
ぴたっと治療に来なくなってしまった。
歳月を経て、再び股関節の状態が悪くなったのだ。
そこで同会のことを思い出して扉を叩いたのである。
自然良能会に通い出したころは、ちょっと歩くのもつらくて、
電柱から次の電柱まで来ると、寄りかかるようにして吐息をつきつつ、
暫時休んでまた次の電柱を目指して歩き出す・・・とSさんはいった。
「そんな自分の状態が恥ずかしくて電柱にもたれて休んでいるときは、
その都度カバンの中をさがすふりしてごまかしていました」
看護帥であるSさんは、職場の病院で担当しているのは
精神障害の患者さんと対応する部署だ。
精神障害の患者さんは、ほとんどがなんらかの病気を
合併しているようだという。
症状ばかりではなく、患者さんの内面やつらさと
向き合う日常であるだけに、Sさんはいたって
ポジティブな考え方をするようになったとか。
つらいことがあっても、プラス思考に捉えるようにしようと努めているのだ。
だからスタッフがバラコンバンドの巻き方を指導すると、
熱心に励行するばかりか、Sさんなりに巻き方を工夫して、
「これ、考えてみたのですが、使えますかね?」とスタッフに尋ねだりもした。
病院の同僚たちにもバラコンバンドを勧めて、
いまではその病院では看護師さんたちは皆、
バンドを愛用しているという。
患者さんを一人でベッドから抱きかかえて移動させることも間々あるが、
バンドを着用しているとなんとかできるという。
それにしてもSさんの症状、先天性股関節脱臼は、
なんともやっかいな難症であるというのが通り相場であったし、
Sさん自身は本当につらい思いをしているのだが、
長い何月をかけて悪くした股関節脱臼のひどい状態のケースから判断すれば、
「僥倖といってもおかしくない・・・」といえるほど扱いやすいものであった。
当人は高校二年にも股関節痛で歩けなくなって入院したりと、
年期が入った状態だったが、治療をして十回にも充たないときに、
Sさんの身体が反応したのである。
思ったよりも成果が早く出るのでは・・・。
治療にも力が入った。
Sさんが、「私、ヘンな歩き方をしているように思えるの」
と気にしていたし事実そうだったが、
当人が気にする歩く姿もガラッと変わってきた。
最近では、激しい痛みは影をひそめて、
「空を飛べそうなくらいと思えるほど、
身体が本当に軽く動くことがあります」
晴ればれとした表情でそういい、
「骨盤調整とは、一生縁がきれませんね・・・」
月刊自然良能より