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②  車椅子を宣告された重度の腰痛

そんな努力とは裏腹に、症状は極端にひどくなっていった。
一年が終わる頃には、入学の時に
五十キロあった体重が四十キロにまで減った。

内科、婦人科、神経科まで行って診察を受けたが、
よくなる兆しはない。
もとより、はっきりした診断も下されなかった。

大学一年の十月初句。腰痛がひどくなった。
それでも頑張って通学していた。
十一月初旬。ついにどうにもならなくなって
別の病院へ行った。

入院して検査をしたが「異常なし」と帰された。
こんなにつらいのに、どうして異常なしなのかあ?
と納得できなかった。

それでも毎日、外来に通った。
牽引、痛み止めの注射と坐薬、飲み薬。
どれもいっこうに効きめがない。
体力が極端に低下してきたので、点滴も打った。

二十歳になった二月初旬。
再度入院して、検査をした。
今度は、椎間板ヘルニアで腰椎五番に
原因があると診断された。

初めて診断がついた。しかし、よくならない。
同じ治療を続けていたが、症状は悪化するばかりだ。

尿が近くなった。残尿感がある。
膀胱炎の典型的な症状である。
便秘にもなった。
薬を飲むと、下痢をした。

生理不順になった上に、
生理痛は以前にも増してひどくなった。
頼りにしている病院で、
これ以上はない最高の医療を受けているのに、
症状は日に日に悪化していく。

精神的な不安も募る一方だ。
眠れないし、食欲がない。イライラ、不安、焦燥感。
他人と口をきくのもいやになる、といったそううつ状態になり、
内科、婦人科、果ては精神科にまで診てもらった。

主治医も首をかしげるばかりで「手術しかない」という。
「珍しいヘルニアだから、
切っても車椅子の生活になるかもしれない」
と、いとも簡単に宣告されたのだ。

本人も母親も顎然とした。
母親にすれば、将来ある娘を車椅子にされたらたまらない。
主治医には「考える」とだけ言って、即日、退院した。
自宅で毎日、寝ている生活が始まった。

しかし、寝てばかりいては、ますます体力が低下する一方だ。
少し調子のよい時は、母親の肩にすがって散歩をした。
それでも症状は悪化していった。

今度は右下肢に力が入らない。
膝、足首が自分の意志で動かせない。
ブラブラの状態になってしまったのだ(下肢の麻痺)。
不思議なことに、腰の痛みは薄らいでいった。

だがこのままでは歩けなくなる。
車椅子になったら大変と、また元の病院へ行った。
主治医は、すぐに入院して手術するようにと言う。
二日後には、病室が空くという。

事ここまで切迫したいまも「最悪の場合は車椅子になる」
と言った医師の言葉が母娘の脳裏を離れない。
車椅子に乗った自分を想像してしまい。
「死んだ方がまし」とさえ思った。

母娘が絶望の淵にいた。
その崖っぶちで、母親は先日、知人が
「どんな腰痛や神経痛も治してしまう、
すごい治療をする先生がいる」
と言ったのを、ふと思い出した。

どんな先生なのか、詳しく知る暇も余裕もなかった。
翌日、三月末のことである。
母娘は、タクシーで自然良能会に駆けつけた。
タクシーから降りても、まり子さんは一人では歩けない。
母親におぶさるようにして治療室に入った。

骨盤調整の施術を約十分受けた。
「よし、立って歩いてみなさい」と、言われるままに、立って歩いた。
なんと、立てた、歩けたのだ。

母親は、ただびっくりして見ている。
本当に大丈夫なのかしら・・・?
と不安気である。

十歩、二十歩と歩くにしたがって、
足許はしっかりしてきた。
確かに、自分で歩いているんだ。
自分の足で歩いているのだ。

それにしても半年間、死ぬ苦しみをしてきたのだ。
それが、たった十分間で・・・。
魔法にかかっているのではないか?と思った。

あまりの嬉しさに、母娘は人目もけばからずに号泣した。
嬉し泣きである。
良能会前の通りに、乗って来たタクシーが待っていた。
治療が終わっても歩けないだろうと、
母親が待たせておいたのだ。

だが、予想は外れ、母親の手を借りながらも
一人で歩いてタクシーのところまで行けた。
連日の治療室通いが始まった。

最初の三日間は用心のためにと、タクシーで通院した。
八日目には、脚腰の痛みはほとんどなくなった。
よく眠れる。親がびっくりするはどの食欲が出てきた。

三ヶ月間、休診の日曜日以外は連日通った。
四ヵ月目からは週三回、五ヵ月目からは週二回と、
症状が改善されるにつれて受診回数も滅ってきた。

初めて治療を受けてから半年経過した今は、
体重四五キロ。いくら食べても、これ以上は増えない。
音大一年の後半は、このまま無理して学業を続けるか、
退学するかでずいぶん悩んだ。

そんな悩みもさらに病状を悪化させる要因になり、
一時、体重は四〇キロまで低下していたのだ。

しかし、自然良能会で治療を受け、目途が立った。そ
こで、一年度が終わると休学し、治療に専念することにした。
病気が治るにつれて、健康がなければ、
何をやっても駄目だと身をもって教えられたからである。

六月には、何のためらいもなく音大を退学した。
今は子供たちに音楽を教えている。
余暇は女友達とパーティをするなど、青春をエンジョイするのに忙しい。
健康であることの賜である。

月刊自然良能より