骨盤調整で培った前向きに努力する心で
挑戦することで健康維持を証明する
好敵手を見い出して
私は、若いころから、なんとなく、
「どうせ70歳まで生きられないんだから・・・」と、
思い込んでいたところがありました。
だからといって、死生観とかという
大仰なものではなかったのですが、
いまから考えてみますと、ままならぬ世の中のありように、
いくぶん捨て鉢な諦観みたいなものがあったのかもしれません。
だからといって拗ね者のような生き方をしたのではなく、
仕事にはしゃにむに打ち込んできましたし、
健康にもなにかと努力してきました。
自他共に認める「健康自慢」でした。
だが、商社マンの仕事はハードの一語、
激務に加えて酒やゴルフの接待つづきで、
つまりは身体に悪いことばかりをやってきたようなもので、
ついに57歳の時、腰痛に見舞われて、
歩くこともままならぬ状態になってしまったのでした。
健康には人一倍自信をもっていただけに、
単に痛み、苦しみ以上の衝撃を受けたものでした。
だが、ある偶然から自然良能会の存在を知ったことは幸いでした。
骨盤調整とバラコンバンドの自己療法で、
半ば諦めていた症状がすっかり解消したときのよろこびといったら
筆舌に尽くせぬものがありました。
それまでは、定年後の自分をある程度は想像していましたが、
いまひとつ実感としてとらえていなかったのも事実です。
それが「腰痛」を体験したことで、
考え方が微妙に変わってきたのです。
そんなある日、なにげなく見たテレビで、
マスターズ陸上競技会の中継をしていたのです。
それを見て、衝撃を受けました。
70歳どころか80歳、90歳の人も参加して
脚力を競っていたのです。
70までしか生きられないのでは・・・?
そんな考えはたわごとに過ぎない、と思えたのです。
(まだまだ頑張れる、いや頑張らなくては・・・)
そう感じると、私も同競技会に参加して、
競技用トラックを走りたいと思ったのです。
足には子供のころから自信がありましたので前準備もせず、
しごく軽い気持ちでマスターズ陸上競技会の
100メートル走と走り幅跳びに出場することにしたのでした。
競技会の前日には、先生から念人りに調整治療を受けました。
100メートル走の途中で息がきれてしまい、
とても完走には程遠いもので、思っていたものとは
あまりに違う自分の体力に愕然としたのです。
競技後も先生のところへ行き、治療をしてもらいましたが、
ひそかなる慢心の鼻が折られた感じて、
いささか悄然としていましたが、
先生からは、もう大丈夫だから常時通院はいいのでは・・・
と言われたのです。
先生は(結果はともあれ)60近くになって
陸上競技会に参加した私の「前向きな意欲」を
かってくださったのだろうと思いました。
そして、先生は治療にこなくてもいいといっても、
なにもしないというのではなく、
健康保持のための努力は怠ってはいけないといい、
次のようなアドバイスをされたのです。
(1) バラコンバンドの腰回し運動の励行
(2) つとめて歩くことを心掛ける
(3) 身体を温め(入浴など)ストレッチをする
(4) 過度な無理をしないこと
等々でした。
私はその言葉を守って、自宅で自分なりの健康法を励行したのです。
たしかにマスターズ陸上競技会への挑戦は失敗しましたが、
そのために私には新たに「挑む」という指標ができたのです。
それから私は、陸上などのスポーツ関連の本を読み、
調べて自分にあったトレーニング法の研究をして、
バラコン法とそうしたトレーニングの実践で少しずつ体力をつけ、
同競技会に毎年挑戦しつづけたのでした。
そして、この競技会にやはり毎回出場している
私と同じ年格好の人に「好敵手」を見い出したのです。
その人になんとか勝ちたい、
優勝したいと必死で駆けましたが、勝てません。
次の年も、その次の年も敗れました。
勝ちたい。
ただ、確実にタイム差は縮まってきています。
いま一息。その思いが励みに拍車をかけました。
そして、私はついにライバルを破ることができたのです。
100メートル走で私は15秒00、彼は15秒02、
わずか16センチの差での優勝でした。
快挙です。「やったぁ・・・」
ゴールして、荒い息づかいで喘ぎながら、内心喝采を叫んだ時、
ライバルのその人がやはり肩で大きく息をしながら、
私と眼が合うと、小さく微笑んだのでした。
私は心で頭を下げました。
翌年の競技会では、私は14秒52、彼は15秒16、
4メートルの大差をつけて圧勝したのでした。
月刊自然良能より