(3) 腰椎椎間板ヘルニア 腰痛と坐骨神経痛

そんな生活を1ケ月半ほど続けていたある日、
いつものように病院で牽引をしたのですが、

帰宅した直後から左脚全体にすさまじい激痛を感じるようになりました。

ギックリ腰の時よりもさらに痛みが強く、鋭利な刃物で何度も刺されるような、
信じがたい激痛に襲われました。

痛み止めの薬を飲んでも湿布を貼っても痛みは変わらず、
その状態が4日程の間、絶え間なく続きました。

まったく身動きひとつしなくても、激痛は絶え間なく私を襲い、
ほんの少し腕を動かすだけでも痛みは強くなるばかりでした。

寝返りも容易にはうてません。
呼吸をするだけでも痛みが増すのです。

なので、ほんのわずかな間でも痛みから逃れようと、
呼吸を止めては、静かに吐く・・・という行為を何度も何度も繰り返していました。

そのような状態ですので、身体は憔悴しきっているのに激痛でまったく眠れず、
1日でも眠れだのは30分から一時間ほど。

しかもそれは睡眠というより、
昏倒という状態に近いものだったと思います。

眠っている間は痛みを感じずにいられるのに、
眠ることができない。

既に内服薬を長期間服用しているので、
睡眠薬を飲んで違う副作用が出るのでは・・・

という恐怖でそれにも手が出せず、
ただ耐えるしかありませんでした。

なかでも鮮明に覚えているのがトイレです。
以前から行くのがいやだったのですが、

その時は目と鼻の先にあるトイレが
何キロも先のように遠く感じ、床を這うようにして行きました。

便座に座るには、ただでさえ激痛が走っている脚を
曲げるのですから、信じられないほどの痛みです。

しかも、この当時は慢性的な腹痛気味で、
1日1回でもつらいのに、

ろくに食事をしていないのにも関わらず
何度も何度もトイレに行かなければならず、

そのたびに歯を食いしばりながらトイレに行ったものです。
そのことは、2度と思いだしたくない記憶です。

それから少しずつ痛みは小さくなりましたが、
それでも左脚の激痛は耐えがたく、
ほとんど自分ひとりではなにもできない状況になってしまいました。

同級生は新社会人として社会に羽ばたいていくのに、自分は寝たきり。

唯一の手段だと信じていた病院での治療後に
こういう事態になってしまったので、もはやどうしてよいかわからず、

「私はこれからどうなってしまうのだろう・・・」
と不安でたまらなくなり、将来を絶望していました。

ギックリ腰からちょうど2ケ月後でした。
外出がまったくできる状態ではなく、
これはもう自分ひとりではどうしようもないと思った私は、
両親へ電話し車で来てもらい後部座席に横たわる形で、
実家へ連れていってもらいました。

それから、実家で両親の世話になることになりましたが、
独り暮らしをさせてもらい大学まで出してもらったのに、
こんな形で実家に戻ることになるとは思ってもいなかったので、

身体の激痛もさることながら、精神的にも両親には
本当に中し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

しかも「薬を飲んで様子を見る」以外なにも
できない状況は、これほど悔しいこともありませんでした。

それから自宅で療養していましたが、
いっこうに良くなる気配はありませんでした。

母に作ってもらった食事も、立ち上がることができないので、
うつ伏せになってお腹や胸の辺りにクノンョンを挟んで
上体を少し反るような体勢で、両肘をつきながら食べていました。

歯磨きも横になったまま行い、
寝ながら水を飲むのが上手くなっていく自分に、いや気がさしていました。

いっこうに良くならない症状に日に日に不安になっていき、
正直、よからぬことも脳裏に浮かぶようになりました。

なにもできない自分に苛立ち、
心配してくれる両親に当たってしまうこともたびたびありました。

そして実家に来て1ケ月半ほど経ったある日、
両親が図書館から1冊の本を借りて来てくれました。

それが、五味会長が著した「骨盤調整法でどんな腰痛も治る」でした。

しかし、牽引という外部からの刺激で激痛になった経験があり、

その詳しいメカニズムを知らなかった私は、
すぐにその本に興味を示しませんでした。

それから数日後になって、
枕元に置いてあった骨盤調整の本がふと気になり、
読んでみると・・・そこには自分と同じような体験をした
人や、自分に当てはまるようなことがズバリ記されていて、

しかも腰痛のメカニズムがとてもわかりやすく書いてありました。

そして、藁をもすがる思いで自然良能会
お電話させていただきましたが、

予約がいっぱいですぐには治療が受けられないことを知り、

非常にガッカリして一度電話を切ったのですが、
その数日後、それだけ人気があるということは
確かな効果があるのではないかと考え、

再び電話をして粋が空いたら連絡して下さるようお願いし、
幸運にもわずか数日後の6月に治療を受けられることになったのでした。