■ 椎間板ヘルニアは手術なしで治るこの確かな事実に感謝して
絶望の淵から這い上がって
私が建設会社の勤めから抜け出したのは、
今から七年前になります。
退職する前は中間管理職で、毎日々々押し寄せてくる仕事を
さばくことに追われて、本当に多忙な日々を送っていました。
身体の健康管理や、病気の知識なんて
考えている時聞かありませんでした。
日曜日もなしで、朝早くから夜遅くなるまで仕事をこなしました。
困らなかったのは、どこへ行くのも車ですし、
そして食物それにお酒でした。
三月のあるあたたかな午後のことでした。
私達は河川敷で測量の仕事をしていた時、
コーン、コーンと乾いた音が聞こえてきたのです。
その方を見ると、ゲートボール競技をしていたのでした。
仕事の手を休めて様子を見にいくと、
いい靴履いてスカツとした帽子をかぶった年輩の男女が、
本当に楽しそうに競技に興じていました。
勤めが終わったら、あの人たちのように、
家の私有林の世話やゲートボールや、それにあちこちと旅行にも行って・・・。
私もそんな思いにかられて、ほのぼのとした気持ちになったものでした。
それからまもなく、桜の花が咲き始めた年度の終わるころのことでした。
なんだかお尻が痛くて、あたたかくなる季節なのに足が冷える!
いつもと違う感覚に、はてなと首が傾げたのでした。
風呂に入るのが億劫で、これまでは家内に早く入れと、
やいのやいのとうるさく言われていたのに仕事から帰ると、
「風呂わいてるか、入るぞ・・・」と言って、
今までより熱い湯を浴びるようになったのです。
そのうちになんとか治るだろう、
このくらいのことは我慢しなくちゃあと。
つまりは高をくくっていたのでした。
春もたけなわで、家の山で春子の椎茸がたくさん採れたので、
姪御に送ってやると、あくる日、
「おっちやんありがとう、もう焼いて食べたわ。」
と礼の電話があった。
私は姪御の若々しくて可愛いその声に、
お尻が痛いのも少しの間忘れていたのですが、
「おっちやん元気でな、また送ってや。
あ、それからそろそろ年やで、気イ付けなあかんでェ」
姪御のそんな言葉に「実はお尻が痛くて、このごろでは足もしびれて、
なんや寒いのや。夜眠られへんし、年やな。いまは、接骨院通いや。
鍼や灸やらやってるのやけど、ちいっとも治らへん。
左足だけやけど、困ったこっちゃ、弱っているわ」
と弱気な言葉を吐くと、姪御は、
「ああ、それひょっとして椎間板ヘルニアと違うか。
もしそうだとしたら、歩けないようになるし、座れないようにもなって、
最後にはしびれが激しくなって泣かんならんよ。
おっちやん、ええ年してて知らんかったの?」
「ほんまかいな。それ、どういう状態やねん」
「それはなあ、腰椎ていうて、
鮭の骨みたいなのが骨盤の上に五つあって、
それぞれの骨と骨の間にクッションの
役目をするために軟骨がある。
その中に線維輪があるのや、
そしてその中に髄核という半液状の物質が入っていて、
それで、クッションの役目をするのやが、
髄核が飛び出て骨化した状態が椎間板ヘルニアというのや。
その脊髄の中をいっぱい神経が通っていて、
お馬さんの背中の毛みたいに左右に出ている神経を
突き出したヘルニアが突いたり押したりするから痛いのや。
もしそうだとしたら、一生治らんそうやというから、
早いところ大きな病院の整形外科に診てもらったほうがええのと違うか」
たくさんの人がその病状で苦しんでいるというよ。
姪御はそう言ったのでした。
私はこんなこと知ったのは初めてのことですが、
それにしても姪御は実に専門的なことを
詳しく知っていたのには驚かされました。
私はそう言われて、頭の中の血がすっとひけて、
くらくらとしたものでした。
姪御の言った通りでした。日に日に足はつっぱる、
こむらがえりが起きる、そして身体は冷えびえとして、
それでも会社の仕事は待ったなしです。
ともかくやるしかない、となんとか我慢しての毎日でしたが、
定年まで後五年という時に、もう私の身体は眼界にきていたのでした。
退職を決意して、社長に申し入れたのです。
大変残念だが大事にね・・・と言って心よくご理解していただけました。
月刊自然良能より